今、振り返る
慶應の日々とザ・タイガース
1971年1月24日、日本人のバンドとしては初の武道館単独コンサートを終え、一人の男が芸能界を去った。「一緒に帰ろう」、そんな言葉をバンドの仲間に残して。
人見豊――ある世代の人々には「瞳みのる」と記した方が通じるだろうか。当時の若者の超人気バンド「ザ・タイガース」のドラマーである。
沢田研二らと華々しい音楽活動を行った。しかし解散後に彼が選んだのは、ほかのメンバーと異なる学問の道。芸能界とは一切の関係を断ち、今春まで高校の教壇に立った。
彼が追い求めてきたものは何だったのか。慶大入学後の歩みを中心に伺った。
◇ ◇ ◇ ◇
元々『三田文学』などの世界に憧れていたという人見氏。AO入試もなかった時代に高校での勉強から再出発し慶大文学部入学を果たした。
芸能界に見切りをつけ、全く異なる世界に身を投じた彼がこだわったもの。それは音楽活動時代から抱いていた「学問を通じて普遍的なものを追究したい」という信念だった。
「犠牲もあったし、人に迷惑もかけたことも一杯あります。でも信念を曲げてしまえば自分自身を売ることになりますからね。それを売らないでこれまで来られたことは、ものすごく幸せだったと思います」
当初専攻を考えたのは日本文学。だがやがて、その日本文学に影響を与えた中国文学の研究にのめり込む。大学院を経て慶應義塾高校に就職した。
教育実習の時から好印象を抱いていた慶應義塾高校。「生徒たちが教師をつくってくれるんですね。教師が生徒によって成長する。逆なんですよ」と人見氏は振り返る。生徒のさりげない一言から自分について気付かされることが多かったそうだ。
教育方針を巡りほかの教員らとやり合うこともしばしばあったが、自由にものを言える雰囲気が慶應の良さだと語る。「ほかの高校に行っていたら、とっくにクビになっていたと思う」
高校退職前後から、詩や音楽などの創作活動にも意欲的に取り組み始めていた。そのほとんどを、日中双方の言語で作り上げているという。
「僕の中で音楽と文学は、ずっと分断されていた。でも自分が学んできた中国語や学問を通じて融合できるんじゃないか……この数年特に強く、そう思うようになりました」
新たな創作活動に入った人見氏。「『高校を退職しました。明日から食っていく道がありません。だから過去の名前で食いつなぎます』……そう思われるのは絶対に嫌だ」と話すとともに、距離を置いてきたザ・タイガースの仲間との関係にも近年変化が生じたと語る。とある音楽番組で沢田研二が『Long Good-by』(作詞―岸部一徳・沢田研二、作曲―森本太郎)と題された一曲を歌った。
「一緒に帰ろうって言われたけど、僕にはどこに帰るのか分からなかった。君はたぶん友だちに戻ろうって言ったんだね」、「30年以上、隙間は重いけれど今なら笑い合いたい」。紛れもなく人見氏に宛てたメッセージ。放送後のある日高校へ訪ねてきた元マネージャーによって、人見氏の心は動かされた。
来年の再結成が噂される「ザ・タイガース」。現時点で明言はできないとのことだが、人見氏の40年ぶりの参加を期待してもよさそうだ。
勉学に励み続けて来たからこそ得たものがあり、作れるものがある。そんな想いを胸に人見氏は今、新たな一歩を踏み出そうとしている。
取材の最後、人見氏から学生へのメッセージとして一編の詩を頂いた。北京で教え子と会った時、自分から若い世代に向けて伝えられることは何かと考え筆をとった。「君たちは僕の世代より聡明で失敗することは少ないだろう。だからこそ、恐れず何でも果敢に挑戦してほしい」。そんな想いを込めて作られた「昨日の自分」。ここに全文を掲載する
(花田亮輔)
「昨日の自分」
秋風吹いて 雲舞い散り
枯葉落ちて 雁は帰る
満ちては欠ける 月のよう
時は絶えず 移りゆく
喜び極まれば
悲しみ溢れる
明日も知れぬ 今日の自分
昨日の自分を 振り返る
君を見ていると
昨日の自分を見ているようだ
明日の自分も分からない
今日の自分だけれども
君は僕よりきっと賢明に生きられるよ
僕は失敗ばかりの人生だけど
今思えばあの時こうしていたら
もっと上手くやれたのにと
だけどそのようには出来なかったのさ
やはり僕は僕の行き方しか
その時には選べなかったのさ
それがまた拙くとも
僕はこれまで人を欺いたことはない
随分人に欺かれたことはあるけどね
これから人に欺かれないようにするよ
君はこれから後悔しちゃいけないよ
あれもこれもしたかったと死ぬ前に
これでも僕は多少後悔しているからね