慶早戦名勝負① 1903年 「第一回早慶戦」

今から100年以上前に開催された第一回の慶早戦である。両校の対戦は早稲田側が慶應に挑戦状を送達し、慶應がそれに応じたことにより実現した。

試合は慶應が勝利したが、当時慶應は発足20年近かったのに対し、早稲田は約1年であったにもかかわらず善戦したことから慶應は早稲田を対戦相手にふさわしいと評価し、翌年から定期戦が行われるようになった。このとき、仮に大差で慶應が勝利していれば、今日の慶早戦は存在しなかったかもしれない。

 

慶早戦名勝負② 1943年「最後の早慶戦」

「最後の早慶戦」という言葉を聞いたことはあるだろうか?

「最後の早慶戦」とは、1943年10月16日に、早稲田大学の戸塚球場(当時は戸塚道場。戦後、安部球場となり、現在は総合学術情報センター)で開催された早慶壮行野球試合のことである。早慶戦とは言っても、通常とは性格が違う。学徒出陣を目前としていたため試合開催に対して早大当局が難色を示すなど様々な苦難があった。試合実現の可能性が薄いと見た慶應は選手を一旦故郷に帰していた。学徒出陣直前の段階で試合ができそうなことがわかり急遽選手を呼び戻したものの、選手たちの練習不足やエース大島選手の故障があり、慶應は1-10で敗れた。しかし、両校は勝敗を度外視して思う存分野球を楽しんだ。両校から校歌・応援歌とともに「ありがとう」「戦場で会おう」の声が交わされる。慶大生が『都の西北』を、早大生が『若き血』を歌い上げるうちに両校のエール交換が終わると、「海行かば」の大合唱が行われた。この「最後の早慶戦」は映画などにもなっており、慶早戦を語る上では欠かせない。

 

慶早戦名勝負③ 1960年秋季 「早慶六連戦」

今季のように優勝の可能性は早慶2校に絞られていた。慶應は早稲田から勝ち点を取れば完全優勝。早稲田は連勝して勝ち点を取るか、2勝1敗で優勝決定戦に持ち込む状況だった。

第1戦は早稲田が2-1で勝ったが、続く第2戦は慶應が4-1で勝利。第3戦は早稲田が3-0で勝って、両校が9勝4敗、勝ち点4で並び、優勝決定戦が行われた。1戦目は1-1、2戦目0-0と決着がつかず、3戦目で早稲田が3-1で勝って、大逆転優勝を果たした。

これが、「早慶六連戦」。リーグ戦の最後に行われる慶早戦だからこそ起きたこの六連戦は名勝負の1つと言えるだろう。

 

慶早戦名勝負④ 2010年秋季 半世紀ぶりの優勝決定戦

1960年秋季「早慶六連戦」以来の早慶による優勝決定戦となったこの年のリーグ戦。

この年の早稲田には「ハンカチ王子」こと斎藤選手をはじめ、大石選手、福井選手とその年のドラフトで1位指名された強力な3本柱を擁していた。神宮球場には3万6000人の大観衆が駆けつけ、六大学野球20年ぶりの満員となった。

試合は斎藤選手が7回まで被安打0の好投を見せた。慶應も8回に5点を取り、反撃するものの5―10で敗れた。その後のインタビューで斎藤選手が語った「周りから斎藤は何か持っているな、と言われるが、その何かが仲間だということを確信した」という言葉は非常に有名である。

 

慶早戦名勝負⑤ 2020年秋季

「早慶戦」の名勝負といえば、2020年の秋季リーグが記憶に新しい。

一戦目に早稲田が勝利し、勝った方が優勝という展開になった2回戦。慶應は廣瀬選手のタイムリーなどで一点リードし迎えた9回、早稲田の主砲現西武の蛭間 拓哉外野手のツーランホームランで逆転され優勝を逃した。

今の4年生にはこの一戦に当時1年生として出場した選手が3人いる。慶應大の廣瀬 隆太内野手と、早稲田大の熊田 任洋内野手、野村 健太外野手だ。この名勝負をグラウンドで戦っていた3人にとって最後の慶早戦となる今季の慶早戦での活躍に注目していきたい。