7月7日に全国公開された映画『遠いところ』。海外の映画祭でも上演され、さらに沖縄でも大きな反響を呼んだ。

なぜ『遠いところ』は人々の共感を集めるのか。そこには、監督・工藤将亮さんの「一人の人生を丁寧に描く」という思いがあった。今回は、工藤監督に自身の映画に対する信念、沖縄での撮影、若者への思いなどを聞いた。

 

アカデミックな経験を撮影に

工藤監督は、高校生の頃から映画のエキストラや美術の仕事をしていた。高校卒業時には、助監督として撮影所で働いていた。しかし同時に映像の専門学校にも通った。学校でアカデミックな環境で学んだ経験は今の自分に活きていると話す。「勉強をちゃんと経てないと危険だというのは、何もわかってない時期だったんですけど、なんか直感で感じましたね。いきなり労働者として働く環境よりかは、学校というアカデミックな場所で 映画という文化に触れるのは、貴重な経験でした」

学校では、それまで自分が見なかったような映画に出会ったと話す。そのような多様な映画に触れた経験が今の工藤監督の創作のもとになっている。

「僕らの専門学校って技術を学ぶだけじゃなくて映画を様々な側面から学ぶんですよ。だからいろんな映画を見せてもらうんですよね。自分だと絶対見なかった映画に出会いました。自分が知らない世界に放り込まれて、答えのない何かに触れるというか。旅行に行った感覚にすごく近い。自分が1番多感な時期に多様な映画に出会った経験はやっぱり未だに自分の根底にあります」

 

遠いところ

映画『遠いところ』(2023年公開)は、コザを舞台に、沖縄に根深く残る若年層の貧困問題を描く。主人公のアオイは17歳で未成年ながらキャバクラで働いている。パートナーのマサヤとの間には子供がおり、子育てもしつつ働いているような状況。生活もマサヤの稼ぎはほとんどなくアオイの稼ぎで支えられている苦しい状況だ。そんな中、アオイたちの働くキャバクラが摘発を受け、さらにマサヤが生活費を持って失踪してしまう。

 

アイデンティティーを乗り越える

沖縄には、独特の言葉「うちなーやまとぅぐち(戦後に定着した沖縄の言葉。沖縄弁と同義)」がある。その言葉の中で沖縄県民と本土出身者は明確に区別される。沖縄県民は「うちなんちゅ」、本土出身者は「ないちゃー」。言葉の違いは、認識の違いでもある。沖縄と本土との歴史関係などから、「ないちゃー」は本質的には沖縄の深いところには関われない。

『遠いところ』の撮影は、長い時間をかけて沖縄と向き合うところからスタートした。監督、主演の花瀬琴音さんを含めた俳優の多くも本土出身者だ。沖縄の社会問題を扱うにあたり、より沖縄について歴史、文化、政治など様々な側面から沖縄を理解しなければいけない。このアイデンティティの差をどう乗り越えるのか。

工藤監督は、まずは難しいことは考えず仲良くなる友達として接することを大切にしたと話す。「まず仲良くなって友達になるってことですね。一緒にお酒飲めるようになる。間違っても、沖縄の社会的構造がどうのこうのなんていうのは言わないと自分の中のルールで決めています」

 

映画が担う役割は何か

メディアは、大きな社会の流れを報じる。全国区のメディアで報道されるニュースは、国民全体の利益にかなうものだ。しかし、社会には必ず流れに取り残され、誰にも知られずに苦しんでいる人がいる。映画は、そこに焦点を当てることが出来ると工藤監督は話す。一人の登場人物を丁寧に描く。あえてその人を取り巻く社会構造などを前面には描かない。観客が一人の人生を見て、どのように思うか、何を考えるか。それが観客との対話となる。それが映画、さらには芸術の意味だと考える。

「映画はメディアじゃないんです。人間を描くっていうことです。人間を丁寧に描くことによって社会は見えてくるし、時代が見えてくる。映画は、本当はそうすべきなんです。社会の構造がどうのこうのっていうのはメディアの仕事なんです。自分たち(芸術家)は、アオイっていう登場人物の1人にフォーカスを当て、彼女の人生を丁寧に描く。映画を観て、なんでこうなってしまうんだろうと考えることが、まずお客さんとの対話なんです。僕は映画というのは、人間を描くものだと思ってるし、芸術の1つです。彼女たちが一生懸命生きていて、すごく美しく見える。彼女の一生懸命な姿がとても綺麗に見えたり、美しく見えたらそれでいい。それがやっぱり映画。映画とか芸術とメディアは違うものであって、区別すべきだと思います」

社会的背景を軽視したり、ないがしろにしたのではない。むしろはっきりと描いているように見える。

「彼女たちの人生をしっかり描けば、背景はしっかり見えてくると思っています。奥にピントを合わせると、手前の物にピントが合わない。ピントを合わせると奥にボケたりしますよね。それは社会が明るいからピントがボケるんです。社会が暗かったらポイントって奥まであるんですよ。僕はこれが沖縄だと思っています」

 

実際の体験から表現されること

俳優の花瀬琴音さん、石田夢実さん、佐久間祥朗さんの3人は、撮影開始1か月以上前からコザに住み町の人たちと生活を共にした。佐久間さんは、映画で演じたマサヤが働いていた建築会社で実際に働いた。しかし、肉体労働のキツさから仕事を逃げ出したそうだ。実際に町に住んでいろんなことを体験させたりするのは、工藤監督の演技のアプローチへのこだわりだ。「僕は見たことのないものを想像だけで表現されるのが極端に嫌いなんです。机上の空論から出てきた表現だから。例えば、人を殺した演技っていうのは、みんな大体一緒です。なぜなら見たことがないから。実際に殺してる人、殺した瞬間とか、殺してしまった人の顔とか気持ちとかを知らないままやってるんで。でももしかして、悲しくて泣いている顔しながら相手のことをぶん殴ってるやつもいるかもしれない。正解がない中で彼らが自分でこれだと思って、自分が見てきたものをチョイスできることにフィールドワークはいかされていると思います」

沖縄市コザ。沖縄県内屈指の繁華街だ。撮影はコザで行われた。コザの持つ様々なものが無造作に詰め込まれたような雑多さ。工藤監督は、そこに沖縄らしさを見出し舞台に選んだ。「いろんな人がいますね。人種も職業もほんとにいろんなものが、鍋の中にぶち込まれたような。沖縄っていうものを象徴している感じがしました」

コザでの撮影は、地元住民の協力によって支えられていた。警察からアンダーグラウンドをいきる人達まで、あらゆる人が撮影に関わっている。「コザのほぼ全員が協力的でした。みんながこの問題に関して真面目に考えて、僕らがやってることに対して協力してくれました」

 

若者が怒ることが出来る社会に

映画の中で、アオイが働いていたキャバクラが 摘発を受けた際、アオイと警察官との尋問のシーンがある。警察官はアオイにキャバクラで働くのをやめ、更生するように諭すのだがアオイは聞く耳を持たない。このシーンは工藤監督の「大人」への思いが垣間見える。

「大人たちは自分たちの都合しか考えない。自分のポジションからしか考えない」

『遠いところ』のテーマは若者の貧困。工藤監督がこのテーマを選ぶのには自身の経験がもとになっている「若者にとって社会は生きにくい」という問題意識がある。

そんな中で私たち若者ができることは何か。

「若者が、もっと大人に腹を立てることですね。理不尽なことに怒っていいんです。暴力的なものは否定しつつも、怒りというものを忘れちゃいけない。でも、みんなが脳死しちゃって疲れてるから無関心になっているんですよ。無関心っていうのは余裕がない時に生まれます。日本は景気が良いわけじゃない。自分のことで精一杯になってくるんですよ。そうすると勉強してる暇がないので、無教養になってくる。知ろうとする気力なくなる。無教養から無関心になって、無関心から無責任の連鎖が続いていく。だから、アオイみたいな子たちのことを考えなくなる。嫌われる勇気を持って大人に喧嘩を売るということじゃないですか」

 

鈴木廉