今年1月27日、沖縄戦に参加した慶應関係者の遺品とみられる、慶應の校章入り万年筆が発見された。発見場所は沖縄県糸満市の真壁地区。糸満市は沖縄本島の最南端に位置し、沖縄戦終焉の地として平和祈念公園等がある。真壁地区は陸海軍が混成部隊を組み、米軍への最後の抵抗を行った激戦地だった。沖縄には、学徒出陣で入隊した慶應出身者も多数いた。
万年筆の発見場所の地図
(引用元:Google社「Google マップ、Google Earth」)
慶應の校章入り万年筆は6月23日から9月3日まで慶應義塾史展示館で展示された。万年筆には、慶應のペンマークに加え、KEの文字、FOUの文字が確認でき、KEIO FOUNTAIN PEN(万年筆)と書いてあったことが推測できる。
持ち主は特定できず…今後も沖縄戦振り返る機会に
慶應の戦没者のうち、沖縄で亡くなったと記録されているのは131人だ。さらに真壁地区と特定できる戦没者は2名。しかし、戦没地が単に沖縄としか記載されてない詳細不明の記録も多く、現在分かる情報ではペンの持ち主の特定は困難だと、福澤研究センターの都倉武之准教授は説明する。いまだ持ち主は見つかっておらず、今回の展示の後は保管し戦争の研究材料として活用するとともに、今後も沖縄戦を回顧する機会に展示する予定だ。
「人」から「モノ」へ ~ 変わる戦争体験の継承~
慶應関係の戦争遺品が沖縄で見つかるのは今回が初めて。そもそも「モノ」が見つかることは珍しいのだという。
「今までは人(戦争体験者)がいたので、そちらが注目されていた。しかし戦争体験者が少なくなり、徐々にモノに興味が持たれるようになった」と都倉氏。
「人」から「モノ」へ。万年筆は戦場に駆り出された塾生の姿だけでなく、戦争をどう伝えていくかの転換期にあることも物語る。
慶大は2013年から「慶應義塾と戦争」アーカイブ・プロジェクトを開始した。当時学徒出陣から70年という節目で、戦争体験の継承方法が検討されつつあった。そんななか、多様な戦争体験を資料として残すべきだとの意識から始まった。今回の万年筆は、そうした動きの中で繋がりをもった人からの連絡を受け、展示館で展示する運びとなった。
「これから(戦争)はある意味フラットに、研究対象になってくる。ドライに、歴史として向き合う時代」になりつつあると都倉氏は語る。だからこそ、「さまざまな切り口で戦争体験を語ったり、考えたりしたことの総体を残して、それを見られる状態にしておくことに意味がある」
慶大の学生も戦場に
慶應の戦没者は全部で2231人(全卒業生を含む)、そのうち学徒出陣での戦没者は381人と記録されている。学徒出陣で軍隊に入った学生の数は調査中だが、現在1943年の最初の学徒出陣で約3000人の学生が入隊したと推定される。
出陣した学生の姿は、日記や遺書など、さまざまな形で残っている。例えば慶應では上原良司の遺した史料が有名だ。上原氏の開戦当時の勇ましい様子を記す日記や、晩年の戦争に批判的なメッセージをもつ遺書など、多くの感情がせめぎ合う当時の学生の様子を記している。「葛藤と蛇行を繰り返す学生の姿が、戦争の悲惨さ、学生がもがき苦しむ姿を表しているのではないか」と都倉氏は推察する。
私たちと同じ塾生が、学問を捨て戦争に行かなければならない時代が確かにあった。
「人から聞いて納得するのが継承の必要な姿ではない」
大学生が戦争を考える姿勢について都倉氏は「多角的に、自分で考えるということが一番大事なことだ」と強調する。戦争体験も、人によって多くの見方や語りがある。
「戦争ってこうですよね、だからこうしましょう、ということを誰かから聞いて納得するのが継承の必要な姿ではない」と話す。
「日本が戦争に向かっていったのは、結局一人一人が自分で考えてこなかったからでもある。そこに学ぶのは、まずは自由に、自分でどう思うかを考えること。それがスタートだと思います」