5月15日-。私たちの慶應義塾にとって、メモリアルデーのひとつだ。慶應4(1868)年のこの日、上野で起きた戦闘により、江戸市中は大混乱の様相を呈していた。そんななか、慶應義塾の創立者、福澤諭吉は、ウェーランドの経済学書を片手に黙々と講義を続け、以下の様に語ったという。
「この慶應義塾は日本の洋学の為には和蘭の出島と同様、世の中にいかなる騒動があっても変乱があっても未だかつて洋学の命脈を断やしたことはない」(『福翁自伝』)
連載《平和を語れば》第2回の今回は、塾生・教員達がいかに戦争の時代を生きたのか。慶應義塾がどのような形で戦争に関与したのか。三田編と日吉編に分けて掲載する。
福澤と戦争
この挿話に福澤諭吉の「戦争」に対する姿勢が現れていると指摘するのは、慶應義塾福澤研究センターの、都倉武之准教授だ。
「福澤諭吉は、武力による問題解決から距離をとっていました。『戦争』は政治権力の変動に過ぎず、本当に社会を動かしていくのは人々の『知の力』であると考えていたのです」
一方、「当面の課題として日本の独立を維持するために軍事力を増強し、諸外国と向き合える様になるべきだという考え方も同時に抱いている人物でした。日清戦争に関しても、近代の実証・合理性の思想と前近代の封建思想、特に儒教思想との戦争ととらえ、勝たねばならないとも主張しました」と都倉准教授はいう。
「軍事力」をベースにした外交が展開されていた当時、学問的に成熟していても他国に征服されてしまってはせっかくの努力が水泡に帰してしまう。「知の力」を信じつつも、時代状況の中で「武力」を否定しないという側面も、福澤は持っていたということだ。
「私立」の矜持
彼の没後、日露戦争や第1次世界大戦が起こったものの、その際、慶應義塾が大きく戦争に関与することはなかった。「その時代には大学と戦争の関係性は意識される機会が少なかった」(都倉准教授)からだ。大学の卒業生がどのくらい軍隊に入隊したか、詳しい調査はないが、余り多くなかったと考えられるという。
また、慶應義塾が「私立」の大学であったという点は今以上に重い意味を持っていた。「当時は官立の大学と私立大学の間に大きな格差がありました。福澤はその現状を批判的に捉えていた。なぜなら全て国家が物事を主導してしまうと、国のやっていること=善となってしまうからです。国や社会のため本当に正しいことは何か、自ら考える事を放棄し、思考停止状態に陥ってしまう恐れを感じたからでしょう」
多事争論
福澤諭吉が重視した、「多事争論」という価値観がある。多様な課題に対し、皆が議論するという状態を指した言葉だ。
「その中にこそ真の『自由』があると福澤は確信しています」と都倉准教授は語る。「どんなに素晴らしい世の中が実現し、どんなに良い政治が行われたとしても、ひとつの考え方しか認められないのだとしたら、そこに『自由』はない」。そのように福澤は考えていたのだという。
一語で言い替えれば、まさに『独立自尊』の思想であると言えるだろう。かけがえのない「建学の祖」を失った慶應義塾だが、彼の精神は、後進たちへ確実に受け継がれていた。
キャンパスの「疎開」
だが、日本が第2次世界大戦に参戦すると、状況は大きく変容する。政府による「国家総動員」の方針が本格化したからだ。慶應義塾に対しても、「国家」の教育機関として果たすべき役割が求められることとなった。その代表例が「疎開」である。
「疎開にも色々な種類があります」と語る都倉准教授。一般的によく知られているのは、戦争遂行の為に都心の子ども達を地方へ移動させる学童疎開だろう。慶應の幼稚舎も学童疎開へ全面的に協力することとなり、生徒たちは最初静岡県、次いで青森県での集団生活を余儀なくされた。
「『建物疎開』というものもあります。空襲で燃えやすい木造建築物の解体、避難路確保の妨げになるような建物も取り壊しが命じられました。無論、慶應三田キャンパス内の建物もその対象となります。ですから、福澤諭吉の家を含む、ほとんどの木造建築物はその際に壊してしまいました」
辛うじて残した福澤邸の仏間、解体した木材なども空襲の際に燃えてしまったのだという。明治以来うけつがれてきた「洋学」の学び舎は、永久にその姿を変えることとなった。
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