「自由の勝利は明白なことだと思います。・・真に日本を愛する者をして立たしめたなら、日本は現在のごとき状態にはあるいは追い込まれなかったと思います。世界どこにおいても肩で風を切ってあるく日本人、これが私の夢見た理想でした・・明日は自由主義者が一人この世から去って行きます。彼の後ろ姿は淋しいですが、心中満足で一杯です」
(『新版 きけわだつみのこえ 日本戦没学生の手記』(岩波書店)抜粋)
これは、慶應義塾大学で学んだ塾生のひとり、上原良司が特攻出撃前夜に記した遺書だ。出撃命令は、彼らが学び、遊んだ日吉のキャンパスの地下深くから発せられた。
連載《平和を語れば》第2回の今回は、塾生・教員達がいかに戦争の時代を生きたのか。慶應義塾がどのような形で戦争に関与したのか。三田編と日吉編に分けて掲載する。この日吉編では、日吉台地下壕保存の会で代表を務める、慶應義塾高校・阿久沢武史教諭に話を聞いた。
理想の学園
日吉キャンパスは1934年5月に開校された。阿久沢教諭はその前年に募集された日吉建設基金の案内文に注目する。「至良の環境で『理想的学園』を建設するとあります」。この「最高の環境」がゆくゆく日吉キャンパスの運命を決定づける鍵となった。
結果的には東急電鉄が、義塾に対し、日吉台の土地7万2千坪を無償で提供することになる。「大学を誘致すれば乗客の増加が確実に見込まれますから。結果として慶應は計13万坪の広大な敷地を獲得することができたのです」と阿久沢教諭は語る。
新進気鋭の建築家・網戸武夫が設計した第一校舎がはじめに竣工された。現在の慶應義塾高校の校舎である。「古典主義とモダニズム建築の融合で、非常に美しい白亜の校舎が完成しました」。ギリシア神殿のような列柱廊を持つ校舎は、まさに「理想的学園」の理念を具現化したものであったのだ。
学徒出陣
だが太平洋戦争がはじまり、日吉キャンパスは「学びの場」から学生を「戦場へ送り出す場」へと変貌を遂げる。1943年、学徒出陣の令により三田、日吉の両キャンパスからも学生が多数出征していったからだ。阿久沢教諭は「まさにキャンパスが経験した歴史の転換点」と位置づける。
学徒出陣の壮行会は日吉の陸上競技場で行われ、慶應義塾側も積極的に学生を送り出した。戦争に出征しない学生は勤労労動員に駆り出された。結果として、日吉のキャンパスから徐々に学生の姿は消えていった。
陸の海軍
空き教室が目立つようになったキャンパスに注目したのは、海軍であった。1944年3月の時点で、慶應義塾は海軍と、日吉の校舎・施設の賃貸借契約を結ぶこととなる。
「当時の日吉キャンパスの寄宿舎は東洋一ともいわれていました。塾生にとって快適で『理想的』な環境であったのと同様、海軍にも非常に魅力的な設備として捉えられたのです」
1944年7月-。サイパン島が陥落し、絶対国防圏が崩壊する。本土決戦にそなえるべく、新たな司令本部の設営が不可欠となった。日本海軍は元来、戦争の最前線である「海上」に司令部を設置していたのだが、命令を出す際の通信環境等を強化するべく、「陸上」に軍司令部を移転させようと試みたためだという。その際、日吉のキャンパスも移転先の候補地としてあげられた。
「海軍が日吉に注目した理由は4つあります。①東京と横須賀の中間で好立地であること。②小高い丘にあるため、無線の受信状態がよいこと。③地盤が地下施設の建設に適していたこと。④地上に堅固な鉄筋コンクリートの施設があったことです」
同年9月-。日吉キャンパスに連合艦隊司令部が移される。全長5キロにも及ぶ地下壕群が作られ、白亜の校舎には防空のために迷彩の黒い帯がタールで塗られた。「学び」のための理想的空間が、「戦争」遂行のための最重要拠点へと姿を変えた瞬間であった-。
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