5月20日、慶應義塾大学医学部の研究チームは、国内初・世界初の研究成果を上げた。iPS細胞を活用し、ALS(筋萎縮性側索硬化症)患者に投与する臨床試験(医師主導治験)で有効性を確認した。同チームで研究を行った、慶大医学部岡野栄之教授に研究の経緯や成果について話を聞いた。
世界初の研究
岡野教授はALS患者のiPS細胞から病気の細胞を再現し、臨床試験で有効性を確認することに成功した。ALS患者のQOL(Quality of life)の低さとALSの有効な治療法がないという2点に着目して、研究に取り組んだ。ALSとは運動神経が変性し、体を動かすのに必要な筋肉が徐々にやせて、やがて死に至る難病のことだ。岡野教授は、今まで幹細胞の技術を使って新しい治療法を見出そうと模索してきた。幹細胞は発生や組織の再生能力を担っており、それを用いればALS患者の運動神経の変性を抑える薬を開発できると考えた。
そこで、ALSの患者から採取したiPS細胞を使って、脱落する運動神経を作った。どうして運動神経が脱落するのかというメカニズムを明らかにしていくと同時に、2018年にその運動神経を抑えるロピニロールという薬を見出した。実際に慶大病院で患者20名に投与し、ロピニロールの安全性と有効性を検証する治験を行った。今回、5月20日に安全性と有効性を示す結果を発表した。
では、なぜiPS細胞に注目したのだろうか。iPS細胞は人体に傷を残さずに血液や皮膚から採取できる。そのため、ALS患者のiPS細胞から運動ニューロンを作れば、ALSの患者の体内で起きていることを試験管の中で見ることができ、どんな運動ニューロンが機能しているのかもわかるという。そのような観点からiPS細胞が重要視されたのだ。
研究を重ねる日々
研究時間には約10年かかったと話す岡野教授。iPS細胞を取り入れて、ALSの研究を行っていこうと考えていた2011年東日本大震災が発生した。インキュベーターやシャーレが転がり、どの細胞かわからなくなってしまった。その後作り直しを行い、規制当局のPMDAにロピニロールの治験の開始が承認され、2018年12月に治験開始。2020年7月に患者に投与をし終えた。統計的な解析を行い、有効性が確認できたことで2021年5月に国内初・世界初の研究として発表するに至った。
毎日が壁
研究をしていく中で、何度も困難な壁にぶつかったという。毎日が壁だったが、それを突き破ることができるから嬉しくなると話す。その際、チームワークの重要性を再確認し、上手くいかなかった理由を分析して、冷静に突き止めることを怠らなかった。
治験と臨床の繰り返し
本格的な実用化に向けてはまだ研究を行っているところである。20名とはいえ、統計学的な有為性をもとに有効性は確認できたが、規制当局からの承認が下りることが必要だ。また、100人単位での患者に向けた治験も必要になる可能性もある。現在、治験に参加した患者からiPS細胞を作り、薬が効いた人と効かなかった人の違いは何かを解析している。治験と臨床の繰り返しによって、実用性を確かめているところである。
日本から世界へ
今回の研究成果によって、日本で生まれたiPS細胞技術が創薬において実際に役に立ったというエビデンスを確立することができた。iPS細胞を使って開発された薬で有効性を示したことが全ての疾患において世界初であることを意味する。「日本初の技術として世界に日本の医療技術の高さを示していくチャンスであり、今後も伸ばしていきたい」と嬉しそうに話す。つまり、医療界に革命をもたらす研究成果であったと言えるだろう。画期的な技術によって人々を救うことが岡野教授の思いだ。
慶大という恵まれた環境の中で
最後に慶大生に向けてメッセージをいただいた。今回の研究過程を通じて、慶大の偉大さに改めて気づいたという。医学部初の研究であるが、10学部14研究科がある大学と仲間、そして慶應義塾の団結力に感謝したいと話す。「学生の皆さんには、慶大での人との結びつきを大事にした大学生活を送ってほしい」こう語った。
(林ことみ)
【プロフィール】
岡野栄之(おかの ひでゆき)
慶應義塾大学医学部卒業(1983)後、慶應義塾大学医学部生理学教室・助手(1983)、大阪大学蛋白質研究所・助手(1985)、米国ジョンズ・ホプキンス大学医学部・ポスドク研究員(1989)、東京大学医科学研究所・助手(1992)を経て、筑波大学基礎医学系・分子神経生物学・教授(1994)、大阪大学医学部・神経機能解剖学・教授(1997)、そして2001年より慶應義塾大学医学部生理学教室・教授(現職)を務める。また、慶應義塾大学・大学院医学研究科委員長(2007〜2015), 医学部長(2015~2017), 大学院医学研究科委員長(2017〜2021)も務めている。主な受賞歴は2014年文部科学大臣表彰・科学賞、2009年紫綬褒章、2014年The first prize of the 51st Erwin von Bälz Prize、2020年高峰記念・第一三共賞。