重松清さんの『きよしこ』が、NHKでドラマ化された。吃音とともに生きる主人公の姿が、鮮やかに描かれている作品だ。自身も吃音を持ち、小説でも吃音を描く重松さんが、いま全ての大学生に伝えたいことを聞いた。
吃音を身近なものと想像する力
『きよしこ』では、さまざまなスタンスの大人が登場し、その間で主人公の心が揺れ動く。ある人は吃音なんかに負けるなと言うが、吃音「なんか」という言葉では表しきれない。別の人は吃音を気にせずに生きていけと言うが、気にしないには重すぎる。吃音はコンプレックスであるし、できるなら滑らかに話したい。かつての自分もそうだったし、吃音を持つ子どももその保護者もそうだと思った。小説の中で、これはこうだと決めつけ、正解を出すことはしなかった。
吃音の一番の難しさは話してみなければ分からないところだ。100人に1人が吃音だ。身の回りに置き換えてみてほしい。高校で3クラスあれば1人いたはずだし、大学の大教室にも1人はいるはずだ。誰もが、これまでに吃音の人と会ったことがあるはずだ。そう考えれば、吃音が一気に身近になるのではないだろうか。
いつも無口でニコニコしている人が、本当は話したいけれど言葉に詰まってしまうから、仕方なく黙っているのかもしれない。ぶっきらぼうに話していると思える人も、話しやすい言葉を選んでいたら、そう聞こえてしまうだけかもしれない。このように想像してみてほしい。
沈黙の中にある思い
言葉は、その人の思いの氷山の一角に過ぎないと思う。吃音を持つ人に限らず、誰しも言葉にしていない思いの方が多いはずだ。慶大生は、自分の思いを言葉にするのがうまい人が多いと思う。思いを表現するのが得意な人にこそ、思いを言葉にすることが苦手な人が、何も思っていないわけではないと知ってほしい。就活などでは、コミュニケーションが上手な人が評価されがちだが、会話だけでは分からないその人の思いがあるはずだ。
言葉に出せないことは、とてもストレスで、疲れることだ。その中で生きている人がいるということを想像してほしい。これは吃音に限らず、目が不自由な人がどれくらい生きづらいのか、足が不自由な人のためのバリアフリーがどこまで進んでるのか、想像する力を持つということだ。吃音に関しては、白杖や車いすのように分かりやすいサインがないため、黙っていたらわからない。無言・沈黙の中にもある思いを想像し、感じ取ってほしい。
吃音のある人生
吃音があってよかったかと聞かれれば、もちろんない方がいい。けれど、吃音のある人生も悪くないなと今は思える。言葉や人の心に、多少なりとも敏感になれたのは吃音のおかげだ。
私は、吃音でうまく話せなかったが、文章を書くのは昔から得意だった。もっと重い吃音の人や、文章で思いを伝えることも苦手な人がいる。その人たちのことを思うと、吃音があってよかった、吃音のおかげで作家になれたとは絶対に言えない。吃音を克服しようとする人もいれば、個性として受け入れていこうとする人もいる。どのように吃音と生きていくかは人それぞれだ。何が正解かなんてなくて、その人がより生きやすいほうで良いのだ。
正解のない人生と多様性
小説でも一つだけの正解を示さないのは、読んだ人それぞれの意識があってよいからだ。「吃音を気にするな」と言いたい人もいるかもしれないし、「大変だったね」と言う人もいるかもしれない。評論や演説と小説との一番の違いは、読者一人一人の感じ方があっていいという点だ。
人が生きていくことにも、たった一つの正解なんてない。吃音を巡って人の生き方について考えることで、吃音以外のことも含めて、想像力を持って、何事も一つの正解を決めつけられないのだと学んでほしい。はやりのフレーズでいえば、それが「多様性」になるはずだから。
(聞き手ː古田明日香)