今月の名作探訪は高橋源一郎『日本文学盛衰史』を紹介する。
あらすじを書くことは野暮に思えるが、とにかく小説は二葉亭四迷の最期から始まる。言文一致体を創るという偉業を成しながらも迷い続けた彼の姿と、その死を悼む作家たち。葬儀の場で夏目漱石は森鴎外に訊ねる。
「森先生」
「なんですか」
「『たまごっち』を手に入れることはできませんか。長女と次女にせがまれて、どうしようもないのです」
「『たまごっち』ですか。娘のマリが持っていたと思います。確か新『たまごっち』の方も持っていたようだ。どこで手に入れたか訊ねてみましょう」
石川啄木は援助交際にはまり、田山花袋はアダルトビデオで「露骨なる描写」を目指す。高橋本人の胃カメラ写真が載り、樋口一葉はヒールの先で煙草を揉み消し、同志達の死を見続けた島崎藤村は淋しさに包まれる。
圧巻なのは漱石『こころ』のKの正体を巡る「WHO IS K?」の章である。事実関係を丁寧に追い、漱石の思惑を推測していく様はミステリーのようで、検証記事風の文章はいつのまにか小説へと変化し、読者は漱石とKの語られざる関係を目の当たりにするのだ。
近代日本文学は難産の末に漸く、辛うじて誕生した。その出産劇に立ち会った明治の作家達。彼らの苦悩を、高橋は現代風俗(90年代)の中に蘇らせる。時には興奮を隠さぬ激しい口調で、時にはシニカルな目線で。
やはり高橋源一郎といったところか、仕込まれたネタはコアなものも多く、読者には近代文学の知識が求められる。高橋もそれをアテにしてこの作品を書いている。いわば作家と読者の共犯関係だ。そうして読者が様々な意味を、読者の数だけ勝手に見出すようになれば小説世界がいくつも生成されていく。パロディとはそういうモノであろう。
日本近代文学史が蓄積したデータベースから断片をピックアップし、「明治的なモノ」を再構築してパロディ化する。ゼロ年代以降、データベースに基づいた二次創作活動が活発になるが、文学においては高橋が既にその手法を実験的に試みていた。果たして本作のそれは功を奏しているだろうか?
壮大な悪ふざけなのかもしれない。あるいは近代文学と真摯(しんし)に向き合った闘いの証なのかもしれない。あるいはまた、冷笑しながら文学へ死亡宣告を下しているのかもしれない。
一つ言えるのは『日本文学盛衰史』はただの記号や情報の寄せ集めで終わってはいない。それは明治を生きた作家達への高橋の深い慈しみと鎮魂の想いが小説に通低音の如く響いているためだろう。
余談だが、作中に登場する90年代の風俗も今ではすっかり色褪(あ)せてしまった。筆者は当時小学生。時の流れは速い。少し速過ぎる、と学生時代の終わりを前に思う。
(古谷孝徳)