私は三田駅で電車に乗った。いつものように 家に帰る地下鉄だ。私が乗ったいつも乗る電車は地下鉄線内では各駅に停車するが、乗り入れ先の路線では特急になる。

普段は満員電車と化す特急だが、今日は座れた。 というのも、私が立った前の椅子に座っていたおばあさんが、ドアが閉まる寸前になって席を立ち電車を降りたのだ。

私が立っていたのは完全に前というわけではなかったため、隣に立っていた同年代の、恐らく同じ塾生であろう青年と、 一瞬目が合った。しかし、 私の方が椅子に対する思い入れが深かったのか、 ほんの一瞬の差で先に動き始めたため、椅子を勝ち取った。

帰路の電車の椅子ほど愛しいものはない。今、この椅子は完全に私のものだ。絶対に譲らない。たとえ、その椅子が幾人もの人々の臀部に触れ、時には喜び、時には疲弊していたとしても、私は構わない。たった 10 分だけの関係で、今後二度と触れ合うことのないものなのだから。

次の駅で、ワイシャツの第 2 ボタンまで開け、 あと3 周くらいネクタイを回せそうなくらいにタイを緩めたスーツの男性が、私の前に立ってきた。

私の駅は六つ隣の地下鉄線内の駅である。当然私はその駅に着けば席を立ち、電車を降りる。私は心の中でスーツの男を祝った。 今、椅子に座っているというだけで、私はスーツの男から無条件に憧れられている。その上、 私は駅が近いがために、 スーツの男に贈り物を渡すことができるのだ。

おめでとう、あなたは もう少しでこの座席を最寄り駅まで専有できる権利を手にすることができ る。たぶん、この権利はあなたが人生で最も欲し いものではないに違いないけども、名前も最寄り駅も知らない私が、あなたに捧げられる唯一の贈り物なのです。私の臀部にぴったり触れ、私のことを想う熱も忘れられなさそうなこの椅子を、時が来たら差し上げましょう。

最寄り駅についた。ビールを開けたときのような前時代的なドア開閉の音がした。最寄り駅は他に二つの路線が乗り入 れる乗換駅でもあるため、多くの乗客がプログ ラムされたように、通常改札よりも少ない乗り換え専用改札に歩いていく。私はその情景を酒の肴に、至福の音を彼女とともに再び聞いた。あ。

(下遠野一樹)