宮城県石巻市の中心部には、この地域の歩みをたどる資料の展示施設、石巻「ニューゼ」がある。2011年3月の東日本大震災直後、地元の新聞「石巻日日新聞」は輪転機が海水に浸かる中、手書きの壁新聞を6日間発行した。それらが現在、ここで展示されている。
石巻日日新聞社の石森洋史さん(34)は、現在石巻を拠点として、壁新聞の解説や石巻の今を伝える活動をしている。
石森さんは震災前からこの新聞社に勤務していたわけではなかった。大学卒業時に地元石巻から上京し、ヤフーでニュースサイトのエンジニアとして働いていた。
震災当時は会社のある六本木にいた。遅めの昼食を買っていた時、地震は起きた。避難のためにオフィスに戻れない中、近くに住む他の社員の家のテレビで、仙台市荒浜地区に津波が押し寄せる映像を見た。
「人の命や財産を守る情報を伝える仕組みを、自分も作っていたと思っていた。でも、あの時それはできなかった。インターネットで何を伝えられるのだろうか、ふと思った瞬間だった」
翌日、石森さんは自宅でサイトを自作し、石巻の情報を集約し始める。進めるうち、断片的にはわかっても欲しい情報が手に入らない、ある種のもどかしさを抱えたという。「知らない人から見れば小さくても、自分にとっての思い出の場所がなくなったことに大きなショックを受けた。でも全国メディアでは小さな個々の思い出まで見ることはできない。そういう乖離みたいなものはあったと思う」。自分の目で見るまでは実感がわかなかったという。
震災から1年以上たった12年7月、ヤフーは「インターネットで生活の課題を解決する」という方針のもと、石巻に事務所を開設した。地元名産の海産物を全国に向けて販売する仕組みを作るというプロジェクトだ。石森さんも帰郷して参加することとなったが、ここで都心と地域の「ズレ」に気づいたという。
このプロジェクトは復興支援の側面も持ちながら、同時に営利企業として黒字経営を目標にしていた。石森さん自身も、利益を求めるのは良いことだと考えていた。
ある時、人気商品の生産者に「もっとたくさん作ってください」と頼んだとき、「もうこれ以上売る気はない」と断られた。忙しくなるくらいなら金儲けをするつもりはない、そのままでいいというのが彼らの本音だった。事業成長と利益を求め、夢中で仕事をしていた石森さんには、思ってもいない気付きだった。
「本人たちの思いとは別に黒字を追求するのか、地元の生活に合った仕事をするのか」。二つの考え方の間で、自分の性に合うのはどちらなのか悩むようになった。最終的に地元を選び、15年に石巻日日新聞に入社する。
給料はヤフー勤務時より半減した。「でも今はやりたいことのほうが多いし、やりがいもある」
石巻日日新聞に入ってからは、取材活動などを通して街とのつながりを築いてきた石森さん。ローカルメディアだからこそ、日々積み重ねた喜びも、日常を失う悲しみも共有しながら前に進む。「地元住民感覚で伝えていく。どこのメディアよりも優れた強み」と話す。
石森さんはローカルメディアの役割を「地域が地域である理由を、伝え残していくこと」と表現する。風土や文化、歴史を通し、石巻が良い、理由付けを作っていく。
災害に見舞われた時、自分の暮らす街がどうなっていくのか、どこよりも住民目線になれるのはローカルメディアだ。街の喜怒哀楽を残していくのもまた、ここでしかできないことだろう。そして震災の記憶もまた、次へと受け継がれる。
(杉浦満ちる)