1992年、一人の作家が死んだ。中上健次、46歳の若さだった。
日本文学の流れの中で極めて重要な役割を背負っていた中上だが、今現在、一般読者への浸透率は高くはないだろう。今月は彼の『十九歳のジェイコブ』を紹介する。
故郷から飛び出し、東京のモダンジャズ喫茶に入り浸る青年・ジェイコブ。ジャズの音を身体に満たし、クスリで頭を痺れさせ、セックスへの衝動を頼りに辛うじて現実と繋がっている。〈ジャズはその潰された音の洪水だった。潰されて中身が露出した音は卵の中でひくひく動いている赤い、まだ形を取る事のない鳥の肉のようだった。〉
友人たちと自堕落な日々を送り、忌々しい過去に縛られ、そうして伯父である高木直一郎への殺意だけを膨らましていく。〈殺してやる。その男の頭を叩き潰し八つ裂きにしてやる。〉
怒り、哀しみ、愛情、悦び、恐れ。ジェイコブはあらゆる感情を抱き、それを全て飲み込む虚無をもまた感じる。〈この世界が腹立たしくってしょうがない。この世界はよごれすぎているような気がします。〉
ジャズのリズムとクスリで濁り狂った意識を思わせる文体で疾走する鮮烈な青春劇である。
角川文庫巻末の解説で、斎藤環氏はジェイコブという名前に注目している。ジェイコブとはヤコブの英語読みであり、旧約聖書を連想させると斎藤氏は書く。作中で、モダンジャズ喫茶を「教会(シナゴーグ)」としていることから、中上自身もそれを意図していると言えるだろう。
そう考えると、次の一節は別の意味を帯びる。
〈白痴の子を巻き添えにした定食屋のオヤジの焼身自殺(中略)命拾いをしたのは、伯父の高木直一郎で、白痴の子は、まるでジェイコブの悪意や憎悪の犠牲になったように死んだ。〉
伯父殺害の細かな計画を立てていたことが、何の罪も無い白痴の女の子を焼身自殺に巻き込こんだ。そう思い込んだジェイコブは衝撃を受け、自分が殺したかのような錯覚を抱く。
まるで原罪意識だ。実際には成していない殺人計画にジェイコブは強く執着する。それは裏返しの罪悪感であり、だから彼は腐った世界から離れられない。クスリに酔い、セックスに溺れ、ジャズの音に涙を流すだけだ。
何も大袈裟な話をするつもりはない。このような、「自分に対するうしろめたさ」や「ここではない場所への欲望」は、10代後半の若者にはよくある感情だ。風俗は変われども、いつの時代も若者は同じように悶え、苦しみ、成長していく。ある意味、20年を経てもジェイコブは今もって苦しみ、もがき続けているのだ。
92年、中上は死んだ。彼の死をもって柄谷行人は「日本近代文学の終わり」を宣告した。もはや「文学」は小説の一ジャンルでしかない。価値多様化の流れに、日本文学も例外なく巻き込まれていったのである。
(古谷孝徳)