幕末が舞台の作品を見ていると、彼は必ずと言っていいほど登場する。気さくな江戸っ子としての一面とともに、ここ一番の場面ではすさまじい気迫を放つ存在。江戸城無血開城に成功し、江戸が火の海になるのを防いだ平和主義者かつ合理主義者、勝海舟である。
海舟の玄孫で、塾員の髙山みな子さんは「交友関係こそが海舟の財産」と話す。41石無役の父を持つ貧乏旗本であったことが功を奏し、海舟は身分に縛られず、誰とでも会うことができた。特に文書を写す仕事を通じて、薩摩の島津斉彬の知遇を得たことは後に大きく影響する。
また海舟は伊勢商人の背中を見て、お金や人脈作りの大切さを学んだ。「武士は食わねど高楊枝」とはよく言ったもので、武士がお金のことを考えるのは卑しいという見方があったが、海舟は合理的に「名」よりも「実」を取ったのである。
江戸城無血開城という海舟の功績は、西郷隆盛との信頼関係と彼の合理的な考えの賜物であった。
信頼関係を築く上で担保となったのが斉彬だ。二人の初対面は維新前であるが、もともと西郷は自らが尊敬する斉彬から海舟についての口聞きを得ていた。海舟がいかに優れている人物であるかを聞いていたおかげで、その会見の際に二人は腹を割って話すことができ、お互いの信頼を築くことが可能となった。
「現代でも誰に紹介されたかというのはとても大事。海舟の説を西郷が信じるかどうか、西郷が海舟の説を新政府側に説明してくれるのを海舟が信じるかどうか。西郷と海舟の会見は斉彬公を鍵とする絶妙な組み合わせでした」
西郷との交渉に際し、海舟は徳川慶喜や旧幕臣の助命を嘆願している。慶喜の首を取れば、各地で旧幕府軍による報復のゲリラ戦が起こる。新政府軍が勝ったとしても、疲弊するのは必至だ。資金はかかるし、国防は手薄になる。また、幕臣の中には優れた人材もいるため、彼らを殺せば、日本の近代化はさらに遅れる。その間に西欧が日本を侵略してきたら、国を守りきれるのか。感情論で動くのではなく、現実と先を見据えて、海舟は誰もが「よし」と思えるような落とし所を模索して交渉に臨んだのだ。
江戸を救った英雄であるものの、彼の現代での評価は分かれている。福澤諭吉が述べた、官軍に抗戦の精神を見せなかったことを「やせ我慢の精神が足りなかった」というのが、批判の最たる例だ。しかし、当の海舟自身は、批判は覚悟の上でどこ吹く風であった。明治維新後の海舟は慶喜の権威復興を第一としており、その目的達成のためには自らの体裁はまったく気にしていなかった。
「歴史から学ぶことは、彼らのような生き方を自分たちにも生かしていくことです」と髙山さん。月日を経ても海舟の雄姿が消えることはない。恥を捨てて世間の風当たりをものともせず、日本の未来を慮った彼の生き方は今でも顧みる価値がある。
(曽根智貴)