1年半前、“被災地”熊本に足を運んだ。私は前回の記事を、「また、熊本に行きたい。」で締めくくっていた。震災が大きな爪あとを残していた熊本のまちが、どう変わっていくのかを見届けたいという思いが強まったからだ。取材班の記者たちも当時それぞれが考えを深めており(特集記事「現地で感じた、熊本の現状」)、今年になってもう一度熊本を取材する、という話が出たのは自然なことであった。

熊本のシンボルの「今」

石垣が崩れたままの戌亥櫓(いぬいやぐら)

今回の取材で熊本城を回った感触を率直に記すとすれば、「想像していたよりも変わっていない」である。視界に広がる石垣部分は、前回見た光景と重なるようだった。依然、二の丸広場や加藤神社といった天守を広く囲む部分のみにしか立ち入ることはできず、中枢である天守へ向かう道は崩れた石垣でふさがれていた。1列の角石のみで支えられていた戌亥櫓(いぬいやぐら)もまだそのままの状態であり、崩落した石の山には草木が生い茂り始めていた。

この日熊本城の前に訪れた益城町では、新たに住宅が建設されたり、以前にはバスが大きく揺られていた道路がきれいに整備されていたりと、まちのダイナミックな「変化」を感じていた。それだけに、城の姿を眺めると不意打ちを食らったようで、絶望感さえ覚えた。歴史的な、巨大な建造物であるだけに、途方もない作業であるという現実を見せつけられたようであった。

前回の取材時には、熊本も試合会場となる2019年のラグビーワールドカップまでに、一般客を天守に入場可能とすることが目標とされていた。しかし、現在の計画では公開までまだ遠いということだ。

だが、少しずつであるが前に進んでいる。城の石垣を構成していた石に番号をつけ並べるという作業が引き続き行われ、前回よりも広範囲に並べられていた。天守の復旧工事も進められ、近くで見ると支えによって宙に浮いているように見える部分もあった。まさに現代にある技術を駆使して工事が行われている過程にあった。

また、ここを観光・教育目的で訪ねる人のための設備も整えられ始めていた。熊本城の機構についての説明パネルが設置され、堀の周囲の観光客用の遊歩道は歩きやすく舗装された。熊本城の周囲をめぐる「よみがえる熊本城 復興見学ルート」として整備されたものだ。

遠く天守を望む二の丸広場には、ランニングをする人、散歩を楽しむ人ストレッチをする人など、思い思いに時間を過ごす人々の姿が見られた。その城が日常の風景の中に溶け込んでいるだけに、景観が大きく変わったときの喪失感の大きさが思われる。そして、まちのシンボル・復興のシンボルの姿を多くの人がともに見守っているのだろう。

この先の熊本を見つめること

この取材で、熊本が“観光地”としての魅力にもあふれた土地だと思った。地魚や馬刺しなど食べ物はおいしく、その後に足を延ばした天草は自然豊かな場所であった。天草の崎津集落が潜伏キリシタン関連遺産として今年世界遺産に登録されたことで、更なるにぎわいを見せることであろう。

前回の取材は2017年3月、私事ながら新聞会で編集局長の職務に就いてまだ日の浅い時期であった。「自らの目で見た熊本を伝えたい」という思いを強め、新聞会での活動に対して気が引き締まったことを記憶している。

来年からは大学生という身分を離れ、会員のひとりとして取材に行くことはもうなくなる。そうしたつながりを失ったら、この震災を、熊本を忘れてしまうのではないかと少し怖さを覚える。

ただ、日常に溶け込んだ存在ではなくても、4月14日、16日が自分の中に深く刻み込まれたことは確かだ。また年がめぐるたびに、熊本の地と人々が受けた痛み、自分の経験の記憶、「今」の熊本をつなげて思いをはせたい。そして、いつか熊本城が復旧した日には、その天守から熊本のまちを眺めよう。
(青木理佳)