今夏に我々を苦しめている猛暑は、刻一刻と変化する環境を象徴している。生命の安全を保障するため、空調管理は欠かせない。
しかし、本邦においては「忍耐」や「節約」といった、自らに我慢を強いることが美徳のように思われている節がある。現状の環境に対して文句を言う人間は「軟弱で自律できていない甘ったれた子ども」のように扱われる。
特に日本の教育者の中には、そういう辛い環境に耐え忍ぶ経験を乗り越えてこそ、人間の「精神」は圧倒的に成長できると考えている者が少なくないようだ。しかし「精神」に到達すべき高みが存在すると考えるのならば、カルト宗教の教義と何の違いがあると言うのか。
我慢を強いる教育によって、確かに「精神」なるものは変化するだろう。だがそれは「成長」というよりは、環境に対する「適応」と呼ぶべきものである。「快適さ」への欲求を押さえつけられて、変化を望めずにただ現状に甘んじることのみを許された、ディストピアがごとき教育環境。この中に押し込められている少年少女たちの、発達途上にある「精神」が、環境適応によってどのように変化するか考えてみよう。もたらされるのは、したたかで気高い武士道精神などではなく、権威に盲従して変革を望む声を冷笑する、哀しい奴隷根性ではないか。
厳しい環境に対処するには、我慢だのエコだのといったヤケクソの自助努力だけではどうしようもない。正しく批判的な思考に基づいて、「寄らば文殊の知恵」のごとく協力し合う精神こそが現代社会にニーズを持つのであり、教育において重視すべきものは、そのための実践的なノウハウだ。
(村上龍汰)