満員の甲子園で、野球の怖さを知った。
2006年夏の甲子園大会、4季連続の甲子園出場を果たした関西高(岡山)の選手たちは、全員がある雪辱を誓ってグラウンドに立っていた。その4大会全てでレギュラーとして中堅を守った上田剛史選手もまた、同じ思いで最後の夏を迎えようとしていた。
「いくら点を取っても取り返される。突き放しても追いつかれる。甲子園ではいつも強烈な負け方を味わってきた」
始まりは05年春の選抜大会だった。初陣で慶應義塾高(塾高)(神奈川)と当たった関西は、一、七、八回と三たびリードを奪うが、九回に逆転サヨナラ負け。「とにかく慶應の応援に圧倒された。あの雰囲気の中で自分のプレーをできたことは自信になった」。悔しさはあったが、それ以上に初めて足を踏み入れる甲子園で劇的な試合を戦ったことに興奮していた。
しかし、徐々に甲子園で「一勝する」ことの難しさを思い知る。忘れられないのは06年春の選抜大会2回戦、早稲田実(東京)との延長15回引き分け再試合だ。
仕切り直しの一戦は、八回終了時点で3―2と関西のリードで最終回を迎える。あと一回を抑えれば、二日間にわたる激闘を制するはずだった。
試合前には日が差し込んでいた甲子園には、ナイター照明が灯っていた。九回表、1死一塁から早実の船橋悠選手が放った打球はライト前へ。平凡なゴロだったが、これを右翼の熊代剛選手が後逸。打球を追う間に打者走者も生還し、一挙逆転を許した。熊代選手は泣いていた。
上田選手と熊代選手は中学時代、バッテリーを組んでいた。高校入学後は右中間をコンビで守り、「ダブルつよし」と呼ばれるほどの仲だった。底抜けに明るい性格の熊代選手が帰りのバスの中でうつむいているのを見て、右翼のカバーを怠った自分のミスを悔やんだ。
「高校野球は、相手を勢いづかせたら止まらない」。もう同じ負け方はしたくない。春の教訓を胸に臨んだのが、同年夏の甲子園大会だった。
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