慶大医学部精神・神経科学教室の田中謙二准教授をはじめとする共同研究グループによる、「意欲」にまつわる研究成果をまとめた論文が2月1日、総合科学雑誌『Nature Communications』に掲載された。正常なマウスと遺伝子改変マウスを用い、レバーを押すとその分だけ得られるエサが増えるという課題をマウスに与え、その際のマウスの意欲を評価する実験が行われた。その結果、意欲の発現にかかわる脳内の細胞が特定されたのである。
今回特定されたのは、「ドパミン受容体2型陽性中型有棘ニューロン(D2-MSN)」という細胞。大脳皮質の深部にある「腹外側線条体」の構成要素である。この細胞に毒を発現させたマウスは、実験における正常なマウスと比較すると、明らかに意欲が減退した。これまでこの細胞は「意欲のブレーキ」的役割を担うと認知されており、おもに薬物依存において、この細胞が活性化すると依存の症状が収まると考えられていた。しかし今回の研究によって真逆の結果が導かれたのである。
そもそも「意欲」とは脳が生み出す現象で、何らかのゴールへ向かう行動を駆り立てるものである。今回の実験では、マウスにとってのゴールは「エサをもらうこと」にあった。人間も、設定した何らかのゴールへ向かって行動することを繰り返して生きており、意欲がないと行動を起こせない。
そのような意欲のない状態が「意欲障害」だ。高確率で意欲障害が発症することが分かっているケースとして、脳損傷や脳外傷などの疾患が挙げられる。一方で、うつ病や登校拒否など心理的な要因をともなうケースも同様の症状がみられるが、その原因は解明されていない。今回の研究は、このような原因不明の意欲障害のための治療薬を開発するにあたって、大いに役立つ可能性がある。
疾患に関わることだけではなく、「やる気スイッチ」たるものが特定できたとしたら、われわれの目に魅力的なものとして映るに違いない。しかし、そのスイッチを実際に押せるかどうかを考えるとなると議論の余地があると田中准教授は言う。実際、意欲障害をともなうパーキンソン病という病気に関しては、患者の脳の特定部位に電極を流し、刺激を与えて症状を改善させる治療もすでに行われている。だが、このように人為的に脳をコントロールすることは、脳へのダメージが非常に大きい。また、現段階で仮に意欲を促進する治療薬ができたとしても、ダイレクトに「スイッチを押す」ということは難しい。運動や音楽などを用いた療法を併せた結果として、副次的に「スイッチが押される」という形にしかなりえない。そもそも、このような意図的な脳の操作が望ましいことなのかという問題も残されている。
「意欲障害」の原因の解明と確実な治療への道のりは遠いと田中准教授は話す。だが、今回の研究は、意欲障害の治療の発展そのものに関わるだけでなく、未来の医療倫理と向き合うにあたって大きな影響をもたらしうるに違いない。
(下村文乃)