「職業としては、野球を考えることはできない」
その言葉を残して、志村亮氏(1989年法学部卒)は、プロ野球球団からの熱烈なラブコールに見向きもせず、野球部の無い三井不動産へ進んだ。年中ユニフォームを着ていた男から、スーツの似合う男への華麗なる転身だった。
野球の名門、桐陰学園時代に2度甲子園に出場するなど、当時から投手として名を馳せていた志村氏。六大学、特に早慶に対する憧れと、OBが多かったという理由で慶大に入学した。
1年春から先発起用され完封勝利を挙げるなど、主力として活躍する。秋には、慶應野球部史上2度目となる無敗優勝に大きく貢献し、伝統のユニフォームのストッキングに2本目の白線を刻んだ。
4年間で積み重ねた勝ち星は、歴代13位タイの31。4年春から秋にかけては、六大学新記録となる53イニング無失点記録(5試合連続完封含む)を樹立するなど、圧倒的な存在感を示していた。
普通なら、ここでプロ入りとなるのだろう。しかし、志村氏は違った。
当時を振り返り志村氏は「プロ野球は、実力を試したいとかいう気持ちだけで、入れる世界ではない。大学生になって、段々と現実が見えてきた」と語る。大学で硬式野球からは身を退くつもりだった。その言葉の通り志村氏は、リーグ戦で最後に使ったグローブに『完全燃焼』と言葉を刻んでいた。
志村氏の決意を表すあるエピソードがある。
大学最後の試合になった、慶早戦第2戦で、通常その試合に登板した投手が試合後に肩の手入れを兼ねて行うキャッチボールを志村氏はやらずにグラウンドを去った。「もう(肩は)使わないから」。志村氏は、試合終了と共に野球から解放されたのだった。
最終学年で、春・秋共に法政に勝ち点を奪われ2位に終わるなど、悔いが全くないわけでない。しかし優勝・大学日本一を経験し、さらに無失点記録を作るなど、志村氏には本人の中でやり残した事はなかった。だからこそ、野球を潔くやめられたのだ。
しかし現在志村氏は、社業の傍らクラブチームで監督兼投手として活躍している。「付き合いで、また野球を始めたら今じゃ監督です」と笑う。
「この前は9回を完投した。でもあんまり監督に頼られても困るんだけどね」とまだまだ現役で投げられることをアピールしてくれた。
野球が嫌いになってやめたわけではない。職業としてではなく、最高の趣味として「今もうまく野球とつきあい続けられている」という。
インタビュー前の練習試合で見せた、美しいフォームと綺麗な球筋。実際会って感じた、紳士的な態度。一世を風靡したサウスポーは、20年の歳月を経ても「慶應ボーイ」の華やかさを失ってはいなかった。
(冨岡洸文)