今期、集中的にその作品を紹介している「第三の新人」たち。彼らが文壇に登場したのは昭和20年代後半であるが、同世代には三島由紀夫がいる。『仮面の告白』で一気に注目を浴びた彼は、その後海外でも高い評価を得たように日本を代表する作家となった。
恰かも11月である。
そう、昭和45年11月25日。陸上自衛隊市ヶ谷駐屯地にて、三島由紀夫は割腹自殺する。その死は、当時の社会にささやかとは言い難い衝撃をもたらした。
それからまもなく40年が経とうとしている。彼の存在は時の作り出す濃霧に霞むどころか、むしろその光彩は強まっている。今月紹介するのは、三島由紀夫『禁色』だ。三島文学の前期を総括する長編小説と言える。
老いた作家檜俊輔は「愕くべく美しい青年」南悠一と出会う。美の化身とも思える悠一であるが、彼は女を愛する事の出来ない同性愛者であった。その秘密を打ち明けられた俊輔は、彼の美しさを利用したある事を企む。人生で悉く女に裏切られてきた恨みを果たすための復讐計画を。
第一部はその復讐が完了したところで終わる。続く第二部では南悠一の体現する美をめぐる物語が展開される。残酷なまでに美しい悠一はゲイ社会でも注目を集め、その魅力を存分に発揮する。自らの内に潜む闇に醒めた彼は、俊輔の「道具」であることをやめ、現実へのささやかな反逆を企てる。
三島美学の前に私は何ら語る言葉を持たない。精巧な論理的世界観は、一つの美しい幾何学模様を描き我々を圧倒する。美は恐ろしい。それはしばしば邪なものを帯びる。それは美の罪ではない。醜い我々の、醜い心がそう見せるのだ。美の放つ光輝の前に我々は己を恥じ、その光をもって己の輪郭を掻き消さなければならない。
美はそこにある。だがそこに我々は決して到達し得ない。ただ官能の働きで美の芳香を味わうのみだ。
さて、いささか大仰に書きすぎた。小難しいことを考えずとも、『禁色』は心理小説としても異色の出来だ。ヘテロな者には同性愛社会の生々しい描写はなんとも刺激的であるし、三島ならではの重厚な文章に酔うのも良い。
檜俊輔と南悠一はそれぞれが三島の分身である。彼が命を賭して演出した生涯を振り返れば、この作品は彼のレゾンデートルの証明として極めて重要な作品であったと思わざるを得ない。
三田祭が終わると25日は「憂国己」、三島由紀夫の命日である。彼はその最期に何を思ったのだろう。日輪は瞼の裏に赫奕と昇ったのだろうか。
(古谷孝徳)